【改訂版】堀辰雄の関東大震災 室生犀星『母』

■堀辰雄の関東大震災 室生犀星『母』


堀辰雄の母・志気。
大正12年(1923年)9月、関東大震災に遭い、隅田川に避難したが亡くなった。



 いまから考えると何が何やら一切夢のような気がします。だいいち母があんなに惨たらしく死んだかどうかさえ私にはまだ信じられないのです。どこかへ用達しにでかけたまま帰って来ないような気がして、私はよく門の前へ出てみることがあるのです。母は小刻みにちょこちょこした早足のくせを持っているのですが、どうかするとよく門の前にそんな足音をきくたびに何気なく帰って来たのだろうと思うことがあるのです。しかし次の瞬間にはそんな筈がないと諦めてしまいますが、とにかくそんな瞬間が一日に何度も不用意に私を考えさせることが多くて、だるい、物憂い気もちがつづいてなりません。まだ私が二十やそこらの歳ですから、あなたと異って一層母のことが思われてならないのです。あなたのような年齢になれば先刻も言われたように、母親という感じが余程太くなっているようですが、私のような若い年配では母という感じが非常に繊細で、どうやらまだその傍を離れられないような気がいたします。つづめて言えば母の生活からすっかり離れていなくて、何一つするにも母に話さなければならないような気がしているのですから、──仮に私の着物などもむしろ私の好みよりも母の好んだ見立てが多くて、私はそれをまるで母に着て見せるためにも存在しているような気がすることがあります。いくらか派手好みな母はいつでも用達しのかえりにはお前によく似合うがらがあったとか言って、こんどあれを見て来るといい、もし気に入ったら買うことにしようなどと言うことがあるのですが、私はまだ母のそういう呉服屋の飾り窓へ近づいたこともありません。なぜかと言うと母の見立てはいつも私とは反対で、がらが優しすぎたり派手だったりするのですから紺絣でたくさんな気でいる私の気に入ろう筈がないのです。が、それを無理に進めるということはありません、気に入らないと申しますと、わたしには大へんお前に似合うと思ってそう言ったんだけれど、肝腎のお前の気に入らなくては仕方がないと言って、それきりにしてしまうことが多いのです。
 妙な話ですが私の家は職人もたくさん使っていましたが、会計の方はすっかり母がしていたのでございます。職人への時貸しや問屋への心使いなども何から何まで父は任せきりでした。だから父は職人を廻すだけの仕事でむしろ閑散な位置にあったのです。それ故すこし込み入った話があると父はすぐ母に相談するという風で、母の方ではそれに一々自分の考えを交えていたのです。ふしぎにそんな風で一家がまるく大した損もなく暮してゆけたのです。私の家の商業ですか?毛筆をつくる方なんです。もと日本橋の馬喰町にいたんですが、都合で四五年前に本所へ越して来たのでございます。──大して繁盛したわけではありませんが、小ぢんまりと職人の方との呼吸も合って皆が母を慕っていたような気がします。もっとも父はああいう好人物ですから母が問屋との懸引に出掛けたあとでも、やはり庭へ出て万年青(おもと)の葉を筆の穂で洗っていました。いつかも母が何かのまぎれに自分のうちで作る筆で万年青の葉を洗うなんて、職人に見つかってもよくないじゃありませんかと言ったが、父は其れもそうだなと言ってその時は止めましたが、あとから又毛筆をつかって居りました。──夏の暑いときなど母が問屋へ勘定取りを済ましてかえると肌脱ぎになって、日本橋通りはまるで磧(かわら)のように暑かったと言って、金の勘定をするのでしたが、父はそんなときにおかしなことには、母の肌へ団扇(うちわ)をつかって風を送ってはやっていました。そんなことがしょっちゅうあるので私は珍らしく思いません。母は二十二のときに私がうまれたのですから、そうです、たしか今年は四十三くらいでしょう。若いときは自分でも痩せていたと言っていましたが、このごろは妙に色が白くなって肥(ふと)っていました。からだなぞとうてい四十三の人と思えないくらいつやつやしているので、──どうかすると私などまともに見られない気がしました。母などというものは不思議な羞(はず)かしさがあったり、一種の不愉快に似た気もちなどが手伝って夏など裸で涼むのを見ると、つい面をそむけるような気になります。ときとするとひどく厭な気もします。──
 いつかお宅へ参ったときがありましたね、あのときも私は一(いっ)しょでは厭だと言ったのですけれど、是非一しょに行くと言ってやって来たのでございます(※1)。よくよく考えてみますと母は私と一しょに歩いたりするのが楽しみなようだったとも思います。たとえば電車に乗っても用事もないのに私に話をかけたり、名前を呼んだりするのです。他の人が注意して居ればなおのことです。お宅へあがったときにもお前のお世話になる人をお母さんがちゃんと見て置いて上げる。そうすりゃお母さんも安心してお前のことをおたのみできるからと言って聞かなかったのです。──かえりにあなたのことをもっと年を取った方だと思ったが、あんまり若いので驚いたと言っていました。母親はあのとおりの下町育ちですから山の手の奥さん連中と話をすることを好きません。だからあなたに玄関で会うとすぐかえったのでしょう。そのさきにも奥さんにあわないで旦那さまに会う工風(くふう)はないかなどと子供らしいことを言ったりしていました。きっと文学者などというものの奥さんは窮屈で固苦しいものだと平常から考えていたものにちがいありません。
 私を引摺り廻すのはいいが、この前おかしな話があるのです。神田に製本屋があって牛込の有名な本屋のものばかりをやっていましたが、あるとき母はそこへも菓子折を持ってわざわざ出掛けて、その牛込の本屋から息子の本が出るようなことがあったら是非骨を折って周旋してくれと頼んだのだそうです(※2)。ところがその製本屋も製本屋で万事引受けたようなことを言って、何(な)んにも知らない母を喜ばせたことがあとで私に知れました。私は笑うこともできなくて、そういうところにも母の心がひそんでいるかとおもうと、その子供らしい気もちが何か有難い気がしたのでございます。世の中には存外ばかばかしい事でその実は決してばかばかしくない誠実のこもっている事があるものです。母の場合は全くその後者でなければなりません。母は私が大学を卒(お)えたららくをするのだと言って、そのときは結城のみじんな縞がらを着て花でも生けてくらすのだと言っていました。お前たちは何処か郊外に世帯を持ち、私はやはり下町からときどき行ってお前たちの暮しを見て上げましょう。その時分になったら嫁と二人でお母さんを大切にして呉(く)れなければいけません。お母さんは何も食べたくはないが、お彼岸のおはぎくらいはお前たちの家の縁側へ出て小さい庭を眺めながら食べたいものだと言ったりしました。下町にいるものですから東京の年中行事を楽しんで送ったものでございます。そんな行事を何一つ欠かしたことがありません。
 も一つは母は私の学校へ行っている間に何時でも二階へ上って来て、みだれ箱の中や机の上の書きものを捜して、もし五六枚の詩の原稿が溜っていたりすると、きっと私がかえってからあれを呉れないかと言うのです。私は私で妙な癖があって何時も詩の原稿をきちんと綴じ上げ、それに表紙をつけておくのです。詩の原稿というものはあなたの伝記にもあったように矢張り綴じて置かないと、いつの間にか失せてしまうものですから、私はいつも左(そ)うして仮綴のまま机の上においておくのでしたが、母はそれを珍らしそうに見ては呉れないかと言うのです。
「お母さんには何をかいてあるか分らないじゃありませんか、そんな分らないものを上げたって仕様がない、──。」
「いえ、あたしにだって読めばわかります。お前のいないときに何時も読んでいるんだから、いつの間にかいくらか分るようになったんですよ、それをお寄越し、ただじゃ気の毒だから母さんがちゃんと買ってあげよう(※3)。」
「あげるなら只あげたっていいんです。売るなんてことはできません。」
 母はあなたの原稿などが本屋や雑誌社に売れるんだから、誰も買手のないお前の原稿を買うのは別にふしぎじゃないじゃありませんか、そりゃお前が学校を卒えたら本屋でも雑誌社でも買ってくれるでしょう、だがいまは誰も買手がない、──だから私がかわりに買って上げるのだと最う一人ぎめにしてしまって私の原稿を自分の手文庫へしまってしまったのです。そのときにも、
「わずかの間だったが最うお前の書いたものが、この曳出しに一杯になってしまいましたよ。」
 そう母が言って何時の間にかいわゆる買い上げた原稿の束をつまみ上げて見せました。私はこんな子供らしい事を咎める気にもならずに黙って微笑(わら)っていました。いったいに私の母はそんな年ごろになっても更紗の古いのや、錦のボロや、古い甲斐絹などの小布れを珍らしがって小さい張紙の箱に蔵(しま)っておくほど子供らしいところがあったのです。もちろんお弄(もちゃ)品はいうまでもありません。何んでも母には面白そうな品でさえあれば喜んでしまって置くくせがあるのです。うちの茶の間の長火鉢の上に住吉人形が釣るされているのも、いわば母の趣味からで左う言えば玄関さきの笹をめぐらした踏石や辻燈籠の類まで何一つ母の好きでなかったものはありません。そして暇さえあれば植木屋を呼んであれをああしろ、こうしろと指図しては閑暇なときは自分も一しょに庭へ出ていました。──言い忘れましたがれいの詩の原稿は母が持ってゆくごとに机のノートの下に五円紙幣が挟まれていました。そのことを决して口へ出しては言いません。だから私はいつの間にかそれを黙ってつかってしまうのです。私が原稿生活をするかどうか分りませんが、するにしても私に最初に稿料を払ってくれたものは本屋でも雑誌社でもないわけです。
 そんな母ですから私よりも父にむかっては却って中々きびしいところがありました。いつか父が向島の料理屋からかえってきて、うちでも一本飲んでからこんどは私をつれて行ってやろうと言い、なかなか美しいお雛さまのような女がいると言いました。父はいい気嫌で左う私に言うことによって隔てなく微笑ってしまおうという気でいたらしいのです。が、母はそのときむっとした顔をして父にむかって、
「わたしのいる間はそんな事をあなたにしていただきたくありません。これが何を知っているものですか、そんなものに
戯談(じょうだん)を言うってことがよくないじゃありませんか。」
 そう言って顔を染めました。父はすぐ気づいたのか、きまり悪そうに私の顔をみると戯談だと言って、それきり再(ま)たと言ったことがありません。母のあのくらい真面目な顔と心から怒ったような顔とを見たことが、その後にだってあまりありませんでした。父は若いころすこしくらい道楽をしたそうですが、近頃になっては料理屋へもあまり立ち寄らないで家で晩食をとるようにしていましたが、あるいは母のしきたりがよかったのかも知れません。どちらかと言えば父は人の好い方なので誘われたらきっと出掛ける方だったのです。──それに近ごろになってから、母はときどき妙に寂しい顔をして、
お前が切角おあしを取るようになってもお前からおあしを貰っては何だか済まないような気がするから、その時分に不自由のないように花を生けることを習おうと思っているんです。そしてお花のお師匠さんになろうと思うがどうかね(※4)。」
 が私は微笑って取り合わないうちに、何時の間にか母がお花をならいにでかけるようになったことをあとで知りました。父の仕事の方でもかなり忙しいのにどう時間を都合してゆくものか、晩なんぞ座敷へ坐(すわ)って竹の筒をならべ、夏菊に鋏を加えていたりしました。それを一人で夢中でやっているのを見ると、なぜか母をいつになくいとしげに感じることがあるのです。花を生けて終(しま)うとやれやれ疲れたと言っていました。そのかわり床の間には赤い夏菊がいい恰好に生けられていました。私はそれを何気なくなかなかよいと賞(ほ)めると、母はわらってまだ本式には生けられないのだと寂しそうに自分も床の間に眼をやるのでした。──あるいはその時にもう母に初老がやって来ていたのかも知れません。何となく初冬の感じを感じさせる初老は、そう言えば近ごろすこし烈しくなったような気もいたします、──と左ういうより今から考えると何も彼もあんな不自然な死にようをする母を考えさせずに置きません、──。ああなるためにも種々な事が工合よくあとあとに頭に残るようにさせたのかも知れません。


宮崎駿監督作品『風立ちぬ』関東大震災発生シーン(仏語ver)



 私どもは恰度(ちょうど)昼飯を食べかかろうとしたときに地震が来たのでございます。はじめの一秒間は例の東京によくある普通の地震だとしか思いませんでしたが、次の二秒間には──何か知ら何時ものそれでないことが直覚されました。すこし荒いなと思っているうちにどーんと上へぐいと押し上げられたような気がして、これは大地震だと思ったので
す。母はすぐ
「大事なものは皆わたしが持って出るから、みんな外へ出なさい、──お前何をしているんです。」
 そう叫ぶと母は奥の間の箪笥の小曳出しから銀行の通いと現金とを持ち出し、父が着物類を取り出そうとしているのを見ると、
「着物はあとでも構いません。」
 そう言って通りへ皆が飛び出しました。私だちはまるで暫らくは立っていられなかったほどです。「地面に手をついていらっしゃい」母は父にそう言ったので、私もそのとおりにしました。が第二番目の地震が来たときは母は落着いてしまって、鎮まるのを待って兎に角みんな着換えをして何時でも遁げられるようにしようと言いました。父も私も平常(ふだん)とは少しよい着物をと言っても暑い時分のことだし、とにかく新しい浴衣を着てから道具類を少しづつ纏めました。そのときは既(も)う吉原一面が、火になっていたのです。が誰言うとなく深川と本所にも火が出たというものが居ました。外へ出て見ると私は喫驚(びっく)りしてしまったのです。火の手があちこちに起っているのです。対岸はと見ると京橋あたりらしい一面の煙と、そのわきに日本橋がさかんに焼けている、──。どうやら下谷あたりにも新しく焼けはじめたらしく白い煙が風の間に吹き流されていました。
「こりゃ全(まる)で東京じゅうの火の手じゃないか?」
 私は家へはいると母にその事を告げましたが、母は案外落着いて、こちらは何しろ隅田川を控えているんだから、橋さえ焼けなかったら大丈夫だと言いました。私はそのとき何気なくその橋のことがぼんやりと気にかかりましたが……
「どんな火だって隅田川は越せるものじゃない、──。」
 父もそう言っていましたが、とにかく母は台所から御飯を持ってくると、お腹をこさえて置かないと働けないからと言って食べかけの昼飯をたべ、そして一同が家の外へ避難しようとすると表の方で先刻からとは別な生々(いきいき)した騒がしさがしました。全く撹乱(こうらん)の中にも新鮮と疲労とがあるものです。私だちが耳をかたむけたときに外の騒がしさが全く胸を悸然(ぎょっ)とさせました。そのとき母はすぐ裏戸を開けると
「火が廻った、──。」
 そう言って皆に逃げなければ駄目だと言いました。まさかと思った水戸さまの屋敷の前まで火がやって来たのです。そとへ出ると母はこう言って蒼白い変にゆがんだ顔つきをして、
「みんな吾妻橋の上で会うんですよ、もう道具なんぞはどうでもいいから。」
 そう言うと表に入り乱れた群衆のなかへ紛れ込みました。その瞬間に私はすぐ父の方を見ましたが、もうその姿が見えません。そして火は向島の土手の両側からと更らに小梅町の奥からと私を挟み打ちにしました。私は土手下へ出るときに火さきで脛さきをぺろりと舐められました。声を限りに母や父の名を呼んで見ましたが、蒸し返る群衆の叫びごえや水の中へ皆が飛び込む音にまぎれて少しも聞えない、──そのうち私はもう仕方がないので川の中へ飛び込みました。そのときは土手上の人がばたばた水の中へ押されては落ち込んだりしていました。飛び込んだ人の上に又飛び込んだりするので下敷になって、それきりになった人もいるらしいのです。
 私はあまり泳ぎを知りません。しかし平常は二三町なら泳げるのですが水の中では一向泳げません。何だか後戻りするような気がしたくらいです。その筈です対岸の浅草一帯に何時の間に火が移ったものか、公園を中心にしてまるで燠のように火が蒸れ上っていて、それを見ただけでも泳ぐ手が力なく凍えたようになって了うのです。それに川の三分の一くらいまで行ったときに、私は生れて初めて龍巻きというものがあんなものかと思ったくらい吃驚りしました。それは火風に煽られた旋風が川のまん中に渦を巻いて、川水が二尺くらい盛上ってぐるぐる眩暈するほど舞っているのです。幅は二間くらいあったでしょう、まん中に白い泡がむら立ってそれが波紋を起してまるで砥ぎ澄したように美しく盛り上って独楽(こま)のように廻っているのです、──そこまで泳いで行った人はまるできりきり舞いをやって、巻き込まれて了ったのです。その巻き込まれた人が上ってくるときは三間から五間くらい下流へぽっかりと死体になって浮きあがって行きました。九月一日は旋風でしたがあんなに酷い龍巻きがあったのは火風のせいに違いありません。私はその渦巻の輪廓にいきなり肩さきを斬られたような気がしたとき、思い切ってわきへ泳ぎ刎ねたのです。まだほんの輪廓にふれたくらいだったからでしょうが、今から考えると全くあの渦の中へ呑み込まれたら、こんなにしては生きていられなかったでしょう。しかも皆はその渦巻きのそばへ行くまでそれを知らなかったのです。何んだか大変水嵩があると思いながらも何かきっと橋の杭のようなものでもあるのだろう位いに考えているうちに、その渦巻の輪廓の第一線に肩さきを奪られたらそれきり足をすくわれて了って、からだが三四度ばかり舞ってぐいぐい底の方へ引き摺り込まれてしまうのです。ですから私は目前にそこへ陥込む人を見ましたが、声を出すことさえ厭になって却って面白いものでも見るように茫乎(ぼんやり)と眺めていたほどです。──あなたは先刻私がわずか一晩のあいだにすっかり顔つきが大人になったと言われましたが、あるいはそうかも知れないと思います。そんな光景を見せられたら全く大人じみた顔くらいにならなければ余程の白痴だと思います。
 それから最う一つ私は恐ろしいものを見ました。ちょうど蒸汽船が通りかかったので私は叫んで見ましたが、とても助けてくれそうもありません。その筈です川一杯にながれた人間がみんな叫んでいるのですもの、しまいに蒸汽船の方で逃足を食ってどんどん走ろうとするのです。私はそのとき今あの蒸汽船に追い付かれなかったらそれきりで溺れ死になってしまうだろう、これはどんなにしてもあれに追いつかなければならないと思って、一生懸命になって蒸汽船目がけて泳ぎつきました。そのときの嬉しさはまるで夢中でした。あとでよくあんなに泳げたものだと思ったくらいです。──そして蒸汽船に乗っていましても、両側の火が飛び交って熱くて仕様がありません。これは船まで焼けて了うのだと思ったくらいです。しまいに船頭はもう船には人を乗せたらこちらがお了いだと言って、もう蒸汽船に一間と近づいた人でも救うことをしなかったのです。私もそれは仕方のないことだと思いました。──だいぶ下流へ行ったころに橋の上に火風が下りたと見ていると、まるで水でも打ちかけたようにぺろぺろ橋が焼けはじめました。あんなに早い火脚を見たことがありません、今放(つ)いたかと思うと既(も)う向側の橋の最後の板の上にまで火さきが走っていたのです。なるほど火風に蒸されていたために訳なく火が乗り移ったに違いありませんが、あんなに鉄材の多い橋にあんなに火が早く移るなんて、あれを眼に見たものでなければその恐ろしさを知ることができません。──蒸汽船は火の海のなかを走っていたのです。船屋台なぞぷすぷす煙っていました。
 しかし母のことを考えたのは、やっと自分が助かってからでした。吾妻橋はとっくに焼け落ちていましたから、あそこで待ち合すことなぞ夢にもだめなことでした。では母は一体どうしたろうか?そう思うと私は川の中に鮒のようにぷくぷく浮いていた人間の死体を思い浮べたのでございます。私は青い川水を覗き込み二三人の死体をもしらべましたが、やはり母は無事だとも死んだとも思うことができませんでした。どっちを決定して考えるにもあまりにまざまざと現状を見ていた私には、わかり過ぎていることをもハッキリ見分けることが出来なかったのです。──そして父は?と思ったときにもやはり同様にぼんやりと考えているだけでした。生死を自分で決定する考えはどうしても起らなかったのでございます。


浦野銀次郎『本所石原方面大旋風之真景』



 私は池袋の知人、──母方の親戚へ身をよせていましたが、二日の午後、父がぼんやりと帰って来ました。汚ない浴衣を一枚引っかけたきり顔は一晩のうちにすっかり痩せ落ち、頭髪は全く真白になっていました。こんなに人間というものはたった一と晩のうちに変貌するものだろうか、──私は父の顔をみるなり何故か悪いことをしたあとのような気がしました。それは私が母と一しょにいなかったために、まるで母を見殺ろしにしたような気もちを私は私自身のなかに感じたのでございます。これと同じい気もちがすぐさま父に対(むか)って感じる私でもありました。しかし父はすぐ私のかおを見ると、ほっとしたような顔をして、
「お母さんを知らなかったか?」
と言って自分自身も知らないことを暗示しました。
「ええ、吾妻橋へは行けなかったのです。仕方なく川へ飛び込んで蒸汽船に助けられたんです。」
「そうか、そりゃよかったが……。」
 父はがっかりした顔つきだったが、その表情にはすっかり諦らめているようなところもあり、さんざ昨夜から考え通して疲れたあまり母のことを言いたくないという気はいも見せました。
「とにかく川へ這入ったらしく思われるんだ。こうしているより一つ捜しに出掛けようではないか、土手を中心にして行けば分るだろう、──。」
 父と私とは提灯と食物とを用意して、その日から土手の上の死骸を一つ一つしらべて行きました(※5)。ところが着物など着ている死骸がすくないために、いちいち死体の顔を上へ向けて見なければならなかったのです。着物をきている人はその縞がらで分りますが、そうでないものは顔とかからだつきとかを見なければならなかったのです。私はその臭気よりも一つ一つの顔をみるのが厭でした。が、そんなことを言っていられる時ではありませんから父のあとについては見てあるきました。たいがい溺死者が多かったせいか、顔などもそのままに静かな顔をしている娘さんや、下町のおかみさんらしいのもあり、なかには睫毛でくろぐろした眼を美しく閉じているのなどありました。
 そのとき私はふと母がへいぜいから指輪を好いていたことを思い出したのでございます。──お話ししたように万事男のなかを切り廻していた母親は派手好みの、わけても変化(かわ)った指輪が非常にすきでした。甲虫のような色をしたあれは何という石かも知れませんが、それを横浜の印度人の開いている何とか言う店から買って来たり、銀座では一と頻り流行った蛇のかたちをした銀の指輪を買ったり、真珠やプラチナなども持っていました。が、どういうものかダイヤはひどく嫌って決ってはめなかったのです。──商人である父はダイヤは財産も同じだから他の下らないものを買ったりするよりダイヤを一つだけはめたらどうだと言いましたが、母はあれは分限者か俄大尽(にわかだいじん)のはめるもので私などのがらではない、第一あれは嫌いだと言ってとうとう一生──今では全く一生箝(は)めなかったのでございます。
 そんな訳ですから私はなるべく死体の右の手を眺めて歩いたのです。私の覚えのある、れいの甲虫色をした指輪をその日はめていたようですから大概見間違うことはないだろうと思ったのです、──が、ふしぎにも何の死体にも指輪が極く稀れにしかはめられていなくて、はめられた分は指さきにまで水気が上っているせいか、指輪も埋るくらいに膨れていたのです。それに死人の指さきに指輪のはめられているのを見るのというものは、生前死後の生活のつながりを差し覗いて見たような気がして、何とも言われず寂しい気がしました。
 そのうち日暮れになったので提灯をつけて何百という死体をいちいち覗いて歩きましたが、私だちと同様に灯をつけた群衆があちこちに死人の顔をさがして歩いてるのを見ると、何だか戦争のあとのような気がしてなりませんでした。しかもまだ火の手があちこちに起って、くすぶっている焦土から絶えず煙がながれていました。そして夜の九時すぎに土手下の窪みにやっと母の姿を見つけたのでございます。
 母はちゃんと甲虫色の指輪ははめていましたが、持って出た筈の現金や通帳は持っていませんでした。私は襯衣(シャツ)一枚になっている母の姿を見ただけで、すぐに泪も出なければ悲しい気が起りませんでした。その筈ですあたりに算を乱した死体はどれもこれも裸同様だし、そういう惨たらしい姿を一日打通しで見つづけた私には、すぐには悲しくなれませんでした。
「やっぱり川へ飛び込んだものらしい、──傷一つしていないじゃないか、だが、この髪は焦げている。」
 父はそう言って髪の毛に手の平を触れましたが、どの死体も同じいように髪の毛は乱れていて、焦げた痕が残っていました。私は父と母との情愛というものを是まで一度だって考えたことはなかったが、何故か父が母の髪の毛に触ったときに非常に刺激的な悲哀をかんじました。父の顔は泣くような泣かないような変な顔をしていたのでございます、──大方私が蒸汽船に辿りついた時分に、母は私や父の名を呼びながら、火に焼かれて苦しまぎれに入水したものだろうと思われるのです。その表情には安らかさがなく、苦しんだあとがありありと残っていたからです。私は私自身がこうして生き残ったことを此の不幸な母のために何故か悪いことをしたように思われてならない気がしたのでございます。あるいは父だって同様な考えをもっていたかも知れません。私だちは死体を荷車に乗せて父が曳き私があと押しをして行きました。あんなに派手好みな母が荷車の上で静かに仰向きになり、顔には手拭いをあてられたまま、焦土のわかりにくい道を市川の知合いまで搬んで行ったのでございます。途々私は母の声音を何度も耳にしたことは言うまでもありません。だが、母はもう冷たくなって車の上にいるではないか?──私はそう思っても矢張り母のこえが轣然(れきぜん)とした轍の音にまぎれながら起ってくるのでした。
「幸雄。」
 私はきゅうに冷たくなって伸び上って、母のすがたを見ました。
「うしろへ摺り落ちそうじゃないか?うしろが非常に重くなって来た、──。」
 父はそういうと些(ちょ)っと車を止めて、母の姿を前へ引くようにした。私ははじめて父が私を呼んだことに気がついて、父に手伝って母を上の方へ押すようにしました。──そのとき私どもと同じい死体を尋ねあてた人々が、あるいは担(かつ)いだり車に乗せたりして続いて背後に見えました。私はどれだけの人死があったかを知らないがその瞬間には生き残った私自身をすら不思議に思ったくらいでした。


鈴木秀太郎「9月2日朝 本所竪川橋付近」
(『大正震災図絵 本所方面』)



 私はまだ母が死んだということが信じられずに居ります。庭や樹の間をみていると植木屋を対手(あいて)に下草や庭木の手入れをしている姿がまだ眼を去らないのでございます。──
「お前とお母さんの名前ばかりを叫んで走ったのだ。どっちかが生きていてくれれば必然(きっと)答えてくれるだろうとあんな混雑の中に呼んで歩いていたが、とうてい知れるわけのものではない、──唯ふしぎなのは吾妻橋の方にもちろん気のせいだろうがお母さんの声がした。あれもお前や私が死んだものと思っていたらしい、──きっと左う思って死んでしまったのだろう。」
 とにかく父は火に趁(お)われると、土手下の石垣へ下りて石垣にぴったりと食っついて、両方の袂をちぎってそれで頬かむりをして、絶えず水の中へ頭をつき込んでは一晩じゅう首だけを水面に出していた。いま水につかったと思うと三分と経たないうちに頬かむりをした布地が乾いた。私のよこにも前にも沢山の人がみんな鵜のように水へ這入ったり出たりしていたのだ。そのうちに何時の間にかだんだん居なくなったことに気がつくと死体がよくからだに突き当った。そのたびによろよろして石垣にかじりついた手を離そうとしたくらいだ。私は人間の足があんなに軽く水の上に浮くものだろうかと思ったくらい、ぽっかり浮く手足をふしぎに眺めた。しかしどういうものかお前だけは川の中を泳いで向岸については居やしないかと思った。お前はすこし泳げる方だから何故かお前は大丈夫だと思った。だからもう夜明けちかくなってから私はあれの名前ばかり呼んでいたのだ。明るい川の水が、ぎらぎら火にあぶらがついたように燃えているばかりだった。そのなかにも平常ききなれたあれの声が雑っていそうで何度も耳を澄したりした。
「今でも川の流れ工合が太股をすうすうと通ってゆくような気がする。水の中では少しも寒くなかったが、上ってからは歯の根も合わないほど寒かった。」
 父はこういうと、疲れた顔をして最う一度私の顔をながめてから、いくらか母を賞めるような口調で戯談めいて言いました。
「これからお前の書いたものを買ってくれる人がないじゃないか?あれは何時でもお前の書いたものでさえあれば、私にも見せないで蒐(あつ)めていた。自分で読めないのは私に見せたっけが……。」
 私はそんな風に物を言われると父を正視できないので、そっぽを向いて、そして初めて父とか母とかいうものは世に類い稀れなその子供にとって悲しいひと達ちだと思ったのです。私のあんな詰らないものが父や母をこんなにまで面白がらせたのだろうかと思うと、戯れに書いた私自身に罪があるような気がして、一生詩なんかを書くまいと思い、文字をつづることが急に厭な気がしたのでございます。もちろん私はあなたにもこれからは詩の原稿を見て貰う機会がなくなるかも知れません、──そんな気を起す私自身が若いせいもありましょうが、それよりも私はやはり古い日本人らしい、そして下町育ちの母親の理想であった文学士になって大学を卒えることばかりを今考えているのです。こんな古くさい考えがどうして新しがりの私に起ったか?今どきの青年らしくもない考えをなぜ私が抱くようになったかは説明できません。──ただ説明できるのは、母のあんなにまでデリケエトな心持にそっと私自身の手をふれたいだけなんです。そして母の理想を微笑んで為し遂げる私の心持ちだけが人人の前に平気でしかもわざとらしくなく釈(と)けるのでございます。ちょうど父が向島の土手の上で母の髪にそっと手をふれたと同じい工合に私は私の母の心に手をふれたいと思ったのでございます。それは若い私のすることを笑う人もありましょうがそれはそれとして、私は私の考えを押しすすめてゆく考えなんでございます。父は水につかっていたのですっかり腹を悪くしていましたが此頃ではだいぶよくなったようでございます。唯あまり永い間焼け落ちた人家の火の手を眺めていたせいか、すこし鳥眼のように晩になると視力が弱ってくると左う言って居りますが、大方の人がみな鳥眼になったように或いはそうなるのではないかと思ったのですが、二三日前から余程よくなったようです。──唯、晩方など戸惑いするように襖などを開けたりすることがありますが、しかし大したことはなかろうと思います。ふしぎなのは父はよくこんなことを言い言いしました。
「お前にはへんに思われるだろうが、日が経つに従ってあれが家のなかの、どこかに居るような気がしてならない、──そんな筈はないと思っても気のせいというものは恐ろしいもので、奥の間に私が居ればあれは茶の間にいるような気がするし、茶の間に私が居ればあれは勝手口に働いているような気がする、──そればかりではない、どうかすると陶物(せともの)を洗う水の音さえ聞えてくるから妙だ。──お前にはそんな気がしないかね。」
「いえ、──しかしまだどこかに居られるような気はすることがありますが……。」
 私はこう答えると永い間父が一しょに居たせいで、さまざまな幻覚を感じるのだろうと思いました。心理学の例証や索引によると親子友人の関係よりも、夫婦間のどっちかが早世したときに感じる幻覚が一番多いそうです。なかんづく妻にさきに亡くなられたあとはその夫が一等ひどい錯覚をかんじることも、どうやら此頃では本統らしく思うようになりました。ふしぎに父は夜よりも昼の方がよけいに母を感じることが出来ると言っていました。そのうちで一番ひどくやられるのは足音だそうです。そういうせいばかりではないでしょうが、父は物音にたいして非常に敏感になりました。私などが小路を廻るとすぐ私だということを感じるようになっているらしいのです。
「お前は路次の入口でしばらく立ち止まりはしなかったか?角の菓子屋のあたりに些(ち)っと立ち止って……それから……」
 私はしばらく考えているうちに、井戸のあるわきに鯉屋が鯉を料理っているのを眺めたことを、その青冷な鱗のいろと一しょに眼にうかべました。
「ええ、ちょうど鯉屋が鯉を秤っていたものですからそれを見ていたのです。よく分りましたね。」
 そういうと父は変に悲しそうに笑って、うむ、このごろは妙だよ、何んでも自分で他人のことを考えていると妙に考えあてることができるんだ。こんなことはこれまで夢にも思わなかったことだと言って、
「自分でもこんなに神経をつかっては悪いと思うんだが、どうも仕方がない、──たいがいの事が考え的てられるものだからツイ面白くなってくるんだ。」
 そういえば此頃の父の顔は一と頻りの老人らしい、屈托のない表情とは違った鋭どさが感じられるようになっていました。と言っても何処と言っては指摘できませんが、顔ばかりでなくからだ全体が鋭どく、どこか素早いけはいが見えているのでございます。こんな小さいことも、あんな災害のあとで誰人にも表われたことのように思われ、これは父一人ではないと思ったのでございます。──そう言えば先刻も言われたように私自身もどこか鋭どくなっているかも分りません。私のようにのろまな人間がこんな風になったのも却っていいことのように思われるのです。──ただ心配なのは父があんな風にあんまり毎日考え込んでいたりして、どうかした気のまぎれから鬱(ふさ)いでしまってへんになりはしないかと思われるのです。医者の話ではこんどの震災では非常に病人が多くなったと言いますが、そのうちでも精神系統の発作的な疾患が多いと言ったが、あなたのお父さんのはそんなに心配したほどのものではない、──あれくらいならよくある病気だと一笑に附してしまったようですが、私はなぜかそんな簡単に考えたくないような気がしているのです。と言って大したことになるとも思いませんが、ああいう症状がじりじりに進んだら?──という心労がかなり私を怖がらせているのです。あんな症状というものは人間の精神を一度でも犯したら、それきり消えてしまうか、又それなりで永く継続してゆくかの二途あるだけなんです。こんどの天変にともなっているだけに或いは生涯あのままで父は父自身にもよく分らないことを考えつづけて行くかも知れません。恐らくあれきりで立ち消えになってしまう症状とは思われません。ただ私の一番恐ろしいことはあのままの症状が総(すべ)ての病理的統計の上でも正確な数理があるように、すこしづつ進んで行きはしないかということが気になるのです。決してあのままのものでないかぎり今日より明日へというふうに進んでゆくものだというふうに見るのが正しい見方だと思うのです。そしたら父はしまいにどうなるか、それは私は知りません、ただ左ういう父を毎日ながめなければならない私が此のままの心持ちを持ってゆかれるかが恐ろしいのです。
 それでなくとも此頃の私は妙に父に似た或る心持ちをだんだんに踏んで行くようで怖いのです。父の考えていることとは別ですが、父と同じい日常を送る私がだんだんに父に近い心持ちを受け継いだり、知らず知らず摸倣することはどうしても免れません。私はそれだけが恐ろしいのでございます。

※1
「大正十二年五月、私は当時田端の高台に住んでいた。或日お隣の奥さんが見え、わたし共の主人の府立第三中学校出身に堀辰雄という生徒がいるが、いちど紹介してくれと言われていますので、会っていただけるかどうかというお話であった。私は何時でもと答えた。お隣は広瀬雄校長であり第三中学校に芥川龍之介も在学していたことがあり、堀は当時二十歳だった。
 或日お母さんに伴われて来た堀辰雄は、さつま絣に袴をはき一高の制帽をかむっていた。よい育ちの息子の顔付に無口の品格を持ったこの青年は、帰るまで何の質問もしなかった。お母さんはふっくりした余裕のある顔付で、余り話ができない人のようだった。これが私の堀のお母さんに会った初めであり、そして終りであった。大正十二年の震災でこのお母さんは、隅田川に火に趁(お)われて水死された。」
(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)

※2
「お母さんは堀がいまに本を書く人になることを考えて、或る製本屋に近づきがあったので態々菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本を製(つく)ってやって下さいと、挨拶にゆかれたそうである。製本屋さんは惘(あき)れて返事も出来なかったであろうが、後年、このお母さんの祈りがかなえられ、堀辰雄の生涯の書物はどれも凝った美装の書物ばかりであった。」
(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)

※3
「とにかく堀の話が出て、堀が詩をかくと、堀のお母さんが五円くれるのだとか、一篇一円で買ってくれるのだとかいう話で、わたしは、うらやましいような、美しいような気がした。」
(中野重治「ふたしかな記憶」『堀辰雄全集 別巻2』所収)

※4
「私の母は前よりも一そう肥えられた。それは一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音さまへ願掛けをされて、平生嗜まれていた酒と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はときおり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるようになった。」
(堀辰雄『花を持てる女』)

※5
「辰雄は母の亡骸を求めて、父と隅田川のほとりを三日間も捜し歩いた。隅田川で水死した母の位牌の裏には「震(なゐ) わが母を見わけぬ うらみかな 辰雄」と刻まれた。」
(谷田昌平『濹東の堀辰雄―その生い立ちを探る』)

付記.
室生犀星『母』は、堀辰雄がモデルらしき、関東大震災で母を失った二十歳の青年が、知人の文学者(=犀星)に語りかける、一人称の短編小説である


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